日本において、ライカ社のパブリックイメージは「ライカ M3」に直結するのではないかと前のページで記しましたが、なぜこのように感じるのか。このあたりを紐解くと、ライカ社の苦悩の歴史が浮かび上がってきます。ライカ社は少なくとも二つの大きなうねりにおいて、経営的に難しい局面を迎えました。一つは「一眼レフの普及」、もう一つは「性急なデジタル化」といったうねりです。その後、現在の絶好調なライカ社へと鮮やかな変貌を遂げて行くわけですが、昨今リリースされるモデルはともかくエッジーで、しかし大いに説得力を持つものばかり。とても同じ会社がリリースしているとは思えません。近年のライカ社を象徴的に物語るモデルの検証を通じて、スイッチが切り替わるかのように状況が一変した要因と、現在のライカ社がどういった会社であるのか探ってみたいと思います。

レンジファインダー式カメラが中心だったライカ社は、一眼レフの台頭によって初めて海外企業との提携に乗り出します。当時のミノルタが相手であり、これはドイツをはじめ、アメリカそして日本で、非常に大きなニュースとして報じられたようです。筆者の個人的な印象として、ドイツの名だたる企業というのは " 理念 " そのものだと感じます。もうやることなすこと理念と直結していて、流行廃りといった散発的かつ短期的な世間の波なんてまるで気にならないかのようです。例を挙げればキリがありませんが、長らく空冷エンジンを使い続け、スポーツカーのパッケージングとしては決して望ましいとは言えない、リヤにエンジンを搭載・リヤ駆動というレイアウトを貫くポルシェ。生産効率やコストが重視され、世界的に作られなくなった直列6気筒のエンジンを未だに作り続けるBMW。筆者はリアルタイムでライカとミノルタの提携を見たわけではありません。恐らく提携に至る前まで、レンジファインダー式のカメラを「それでいいんだ、それが最高なんだ」と、一眼レフの台頭を傍観していたフシがあるのではないかと思います。いや、このセリフすら出てこない気が。何故なら " 理念 " そのものなのですから、当たり前のことが口をついて出てくるはずはないですよね。結果として一眼レフの台頭が本物だと痛感した際には時既に遅し、追い込まれての提携という状況だったのではないでしょうか。残念ながら業績を劇的に上げるほどの効果は得られなかった模様です。もう一つのうねり、性急なデジタル化の波に上手く乗り切れなかった理由はよくわかりません。多々ある理由の一つには、恐らく当時のデバイスや制御では、ライカ社が望むアウトプットが得られないという考えもあったのではないかと思います。いずれにせよ、上手く乗り切れなかったことで再び難しい局面を迎えたのは事実でしょう。当時の主要株主にあのエルメスが名を連ねていたのは有名な話ですが、そのエルメスも撤退を表明。事態は深刻な状況でした。その後、いまやすっかりライカ社の顔としてお馴染みとなったDr.カウフマン氏が筆頭株主となり、現在のライカ社の体制へと繋がっていくことになります。

前置きが長くなりましたが、リリースされてきたモデルから現在のライカ社の姿を探っていきましょう。ライカ社のデジタルカメラが今後進んでいくだろうと感じた出来事がありました。現在も継続中である「ライカ アラカルト」のサービス開始です。2004年のことでした。ライカ M7/MPというフイルムのM型を、ユーザがカスタマイズ注文できるというサービスです。当時の印象としては、デジタル化が進んでいくという予感よりもむしろ、フイルムM型はライカ M7/MPで終わりを迎える日が来るんだなと感じたことの方が大きかったように記憶しています。もう一つあります。それまでのライカ社から考えれば、"一線を踏み越えた" サービスであると感じました。アラカルト以前にも限定販売のカスタマイズモデルは多々存在しています。しかしそれはあくまでメーカーが作り上げるものであり性格が全く違うものです。こんなサービスを提供するとは、何か経営的に劇的な変化を迎えたのでは無いか、そう感じたものでした。このことについては、5年以上後に、Dr.カウフマン氏にお話を伺う機会に恵まれたわけですが、理由がよくわかりました。それはまた後ほどに。

散発的にコンパクトデジタルカメラのリリースは行われていましたが、依然フイルムのM型、そして一眼レフのRシリーズが主力だったライカ社。そんな折、以前より発表だけさていましたが、遅れていた「LEICA Digital-Module-R」(以下、DMRとします)がリリースされました。ライカ R8/R9という一眼レフの裏蓋を換装することで、デジタル撮影を可能にし、フイルムでもデジタルでも撮影できる、言ってみれば「135(35mm)用デジタルバック」のような製品です。当時のデジタルシーンは、中判デジタルバックのようなハイエンドを除いて、135ライクなデジタルカメラでは、解像度・階調・ダイナミックレンジといった写りを決める要素で、まだまだフイルムに大きな魅力やアドバンテージが感じられていた頃だったと思います。Rシリーズのユーザであった筆者は、これまでの資産が活かせる上に、フイルム撮影も一つのボディでこなせてしまう新鮮さ、そしてまだまだフイルムの描写に取り憑かれていたため、これは好都合と、発売と同時に清水の舞台から飛び降りるような心境で購入しました。ファーストシュートで度肝を抜かれたのを昨日のことのように想い出されます。LPF(ローパスフィルタ)を省略したこのモジュールは、ともかく尖鋭な画を叩き出し、それまで中判デジタルでしか見たことが無いような画を135のパッケージングで実現したのです。このことについては、ライカが初めてではありません。KodakやCONTAXからLPFを省略したモデルは存在していました。しかしどれもトータルのパッケージングに難があり、実用するには色々な作法を強いるモデル達でした。その点DMRは、極端な画面周辺の色転びや、バッテリーライフ等をはじめとするボディの使い勝手など、裏蓋を換装するという危うい(?)システムの割には非常に完成度が高かったように感じられます。画的には現在見ても見劣りしないものであり、ようやく本年登場したあたりの中級クラス以上のカメラで比肩するといった、何年も先を走るような画を実現していたように感じます。Rシリーズ用のレンズの描写は昔から定評があり、ややもするとM型用のレンズよりも全く良く写ると愛好家の間では言われているほどでした。DMRとのマッチングも大半問題無く、このことも画のインパクトに繋がったと今思えば感じるところです。フイルムとデジタルを行き来できるシステムが故に、フイルム独特の描写を楽しみたければ即座にシステム変更が可能という点も、デジタルで叩き出す画のインパクトも手伝って、妙にライカ社のフィロソフィめいたものを感じたものです。他社のシステムで言えばボディを交換すれば良いだけの話なのですが。しかし、なぜ一からデジタル専用ボディをおこさなかったのでしょうか。インタビュー等で確認したわけではありませんので、あくまで推察に過ぎませんが、仮に新規におこすなら、少なくともMF専用機とはならなかったと推察されますので、AFを搭載した新規のボディをおこすとなると、システム全体を新設計した挙げ句、カメラのみならずレンズも取りそろえる必要があります。これは如何にも様々な意味でハードルが高い。従って、MFの現状のシステムにデジタルをプラグインできるように設計したのだと推察されます。デジタル化の波に乗るのならば、もっと違ったアプローチがあったかもしれません。たとえば大型の提携を他社と結び、もっと"わかりやすく"デジタル一眼レフシステムを作り上げることもできたかも。可能であったかはわかりませんが。しかし、DMRのリリースに漕ぎ着けました。結果的に現在のライカ社へのターニングポイントとなったモデルでは無いかと想像しています。少なくとも筆者は、何になのか、どうなのかは当時わかりませんでしたが、ライカという会社が、脳裏に強烈な印象として刻みつけられたのでした。

< 前のページへ

 

このページの上部へ