コンクリートやレンガの建物に仕切られ、昼の陽光が直線的な幾何学模様の影を落とし、何となく無機質な雰囲気を感じさせる都心部。その隙間の複雑な通路を人々が食を求める蟻のごとく右往左往している。自虐的な意味合いではなく、空から眺めれば都会の姿はそのように映るのではないだろうか。ここシアトル市はアメリカ本土で日本に最も近い街である。位置は北緯47度だから北海道より上にあり南樺太と同じ緯度だ。相当北に位置するが海洋性の穏やかな気候に恵まれている。冬は雨シーズンだが、そのお陰で春夏は緑の美しい風景に囲まれるのがうれしい。市といっても東京都23区に比べ、面積は3分の1、人口は10%にも満たない小さな街だ。通常は私が住んでいる隣街のベルビュー市などその周辺地域も含めて「シアトル」と呼ばれている。

この街は全米で白人比率がもっとも高い都市の一つだが、多民族からなる割合も高くヨーロッパ他、世界のあらゆる民族系列の人々が生活をしている。街を歩けば顔付きも一定でなく、それぞれ異なった土地柄を思わせる人々とすれ違い「アメリカ人」という姿のイメージを枠にはめることはできない。新たな世代になっていても出身民族の言葉を話す人は多く、賑やかなレストランに入れば英語に混じって右からドイツ語、左からフランス語、前から中国語、後ろからどことも分からない言語が聞こえてくるので、とても国際色豊かだ。


言葉が違えば文化も違い、常識的な枠を外れた風体や行動の人も多いのだが、そのことを不審に思う前にそれを「個性」として受け入れ、自分にとっては普通とは見えないことも、その当人にとってはそれが「普通」なんだろうと素直に納得して気にしない。そこが単一民族の日本と多民族からなるアメリカとの違いなんだと理解している。だからアメリカ人が個性を重んじる大様な人種というより社会性がそうなっているのだ。しかしその自由性は気に入っていて、他に迷惑をかけることでなければ周囲から特異な目で見られることもなく、マイペースで自分に合った生活が楽しめるのがいい。しかも日常で見る画一的でない様々な人間模様が結構面白いのだ。

社会のルールの下にそれぞれが自分のリズムで生活し、時には共に、時には独りで過ごす喜怒哀楽の日々は、舞あがったり落ち込んだりすることがあってもまた次が来ること知っているので、気持ちをうまくコントロールしながら、人生行路を退屈せずに取りあえず進むことができる。いろいろな人や出来事が目まぐるしく混じり合う都会に住むと、ある程度物事を割り切りる術を知るのも生活の知恵だと思う。要するに肩から荷をぽんぽんと降ろしていかないと持ちこたえられないということだ。

都会のダウンタウン。人々の話声、流れてくる軽いジャズ、車の警笛やビルをすり抜け遠くからこだまのように聞こえてくるポリスカーのサイレン。賑やかな雑踏の中でふと周りの人々の実在感が消え、自分だけがモノクロになってこの場にいるのが不思議なような孤立感を覚えることがある。そんな時はどうにも人恋しく、こんなベンチの空いているスペースに座って他の人の息遣いが聞きたくなり、体温も感じたくなるものだ。話しかけたいとも、こちらの存在に関心を持ってもらいたいとも望まなく、ただ一方的に感じれればよく、それで悪夢を払えてほっとした安心感を得れるのではないかと思うのだ。

ウインドーに映る自分の姿は現実に存在しているのだろうか。或いはこの女性マネ キンに重なった彼のように、自分と思う姿が他の人から見ると全く違ったものに なっているのかもしれないし、もしかすると自分はミラーの世界に住んでいる可能 性もあるのだ。そうであれば現実の世界に住む自分はどんなだろうと、ふと昔に見 た映画のそんなストーリーを思い出した。

宇宙歴からすればほんの一瞬の存在の間に、喜怒哀楽をいっぱい詰め込んで旅をする人間はとても崇高な生き物だと思う。叶わぬまでも自分はこうしたい、こうありたいと健気に挑戦しながら日々を過ごしている。物理的には単に「一瞬」の旅なのだが、その時間に人間が創り上げる「価値」は高くそして永遠そのものなのだから。

Scott Tsumura

アメリカ合衆国ワシントン州ベルビュー市在住。69歳。
Tozai Inc. エグゼクティブプロデューサー。

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