はじめてモノクロでの撮影で、プリントを見て酷くがっかりした覚えがある。カラー撮影ばかりだったので、光景を"階調で見る"という概念が全く無かったのだ。単純に「綺麗だな」とフレームしたカットが、モノクロのプリントでは輝度差がなさ過ぎて何だかよくわからない。考えてみれば、写真を撮るのに「光」というものをはっきりと意識したのはモノクロフイルムを使い始めてから。それまでは「線」と「色」でフレームの殆どを構成していたわけで、モノクロフイルムは自分に奥行きについて考えるきっかけをくれたのである。
写真なんてものをやらない限り、少なくとも私の場合は「光」なんてものを意識して考えることは無かったかもしれない。おそらく「階調」も。 それ以前はどんな風に感じていたのだろうか。いまとなっては思い出せもしないのだが「暖かいな」「暑いな」「眩しいな」ぐらいのものだったろう。
というわけで、モノクロ写真をやってれば、やたらと光に敏感になる。自分の撮ったカットはもとより、誰かのカットを見ても、その光の具合で「あ、これは冬の光だ」なんてわかるようになるから面白い。ある種、光に反応する虫みたいなものだ。全く話は変わるのだが、私は基本的に面倒くさがり。寒い冬なんて、コタツで猫と一緒に寝ていたい。写真と出会い、モノクロで光に再度出会って、外をあてもなく練り歩くようになったのだからずいぶん健康的になったものだ。
このサイトの編集メンバーの1人は、長年コマーシャルの世界で生きてきた。柔らかい、固い、なんてありきたりな言葉だけでなく、光をそれはもうありとあらゆる喩えで語る。「この光が欲しければ何処其処で、このアングルで、何時頃が佳い」なんて話をさせたら日が暮れて夜が明けそう。光のマジシャンみたいなものだ。コマーシャルの撮影は実にロジカルで、結果は組立と積み上げの賜だ。
一つだけ納得いかないことがある。それだけロジカルに積み上げてきた人が、よく「幸せな感じの光」なんてことを言うのだ。幸せなんてものは人それぞれで、少なくともクリエーターがそんな抽象的な表現を・・・と思うのだが。しかし、こうも思う。とにかくロジカルに光に触れ、そしてコントロールしてきたカメラマンが、全てを超えて、いや溢れ出すような光を目の当たりにする。光とはとにかく天照らすものだ。これだけ偉大なものは無いかもしれない。そして我々は包まれている。このことを指して「幸せな感じ」と喩えるのかもしれない。幸せとはそういったものかもしれないと。
早朝の繁華街を撮っていて面白いなと思うのは、光を失うと途端にグレーに染まり、立体感を失うところだ。遮る物を超えて光が差し込みはじめると、街には人が溢れ、輪郭が表れ燦めきはじめる。
光の明滅は、まさに命そのものを描くかのようだ。
モノクロ写真は階調で見せるものだ。
ドラマティックな光と無縁な曇り空、中間のトーンで埋め尽くされるときは、時を張り付かせるチャンスだ。
猫は向日葵だ。いや、日時計か。
冬に猫を追いかければ、自然に光を味方に付けられる。
光は世相を浮かび上がらせる。なんてとってつけたかのような話はともかく、JR赤羽駅は、光がよく差し込む駅で好きな場所の一つ。
つくづく思うことだが、光なんてコントロールしようがない。したつもりでも、撮っている自分がまず照らされているのだ。ありのままを見つめるのが得策なのではないか。階調でしか表現できないモノクロフイルムを使うことで実感することである。