ハッセルブラッドで風景を撮ることが楽しかった。ジッツオの三脚にがっちり据えて、ケーブルレリーズでシャッターを切る。三脚に据えるならウエストレベルファインダーでは不便。プリズムファインダーを載せて、ワインダーをつけて。撮影行はいつだって夜逃げでもするのかといった荷物の量。あるときフッと中古カメラ屋さんに立ち寄り、500Cという随分クラシカルなハッセルブラッドと遭遇。怒り肩の503CWに比べれば、優しげで丸みを帯びたフォルム。カメラは最新が最良と思いこんでいた当時の私にとって、眼中になかったクラシックカメラだが、なぜか妙に惹かれたのだ。気がついたら紙袋を手にさげていた。今にして思えば、これが泥沼の始まりだ。

500Cを買ったその日は、仕事も放って舐めるように見つめ撫で回す。フイルムを通すと、いつもの夜逃げ並みの荷物は何処へやら。レンズ1本ボディ1つで散策に出かけた。中判を手持ちで撮るなんて考えられなかったのだが、三脚にカメラを載せてフレームの微修正を強いられる、あの撮影スタイルからの解放は、まさに自由そのものだった。こんなに撮影とは楽しいものなのかといったぐらいに。35mmの解像力不足から中判に進み、とにかくシャープに写し込むことばかり考えていた人間が、手持ちでブレ量産、あげく解放どころか「開放」での撮影ばかりに。そもそもガチっとした撮影が向いていなかったのだろうか。ご想像通り、以後色々なクラシックカメラに目が向くようになるのだった。

ライカというものは知ってはいた。「あんなもん使うようになったら終わりだな」と、懐古主義で趣味が悪いとまで思っていた。政治家が「私は一向にブレていない」なんて発言をしているのを最近よく聞くのだが、人とは揺れるもので、できる限りそんなことは言わないほうがよい。簡単にブレるものなのだ。

ライカかあ。そうかライカかあ。ライカねえ。

気がついたら触ってみたい一心だ。ちょうどプロカメラマンが所有するライカM3に触る機会に恵まれた。マウントされていたレンズはElmar 5cm F2.8である。何だか妙に銀色だ。カメラは黒いものじゃないのか。不思議な出で立ちのカメラを、ポンと私の手に載せる。小さなボディからは想像のつかない塊感に驚いた。如何にも精密そうだ。手渡されても何をどう触ればよいのかわからない。しかしプロカメラマンは写真だけじゃなく、人たらしのプロでもあるのかと思うぐらい、それはもう見事で鮮やかなクロージングに出る。Elmar 5cmの絞り環をきゅっと操作するのである。まず絞り羽根の枚数の多さに驚いた。ハッセルブラッドは6枚しか無いのだ。さらに絞り込んでいっても形が綺麗に丸だ。本当に驚いた。次にカメラマンは二重像の合わせ方を教えてくれて、そのギミックに驚き、シャッターを押させ、「ジュッポ!」なんて言わない静かさに驚き、あげく巻き上げさせた。「ギギギギー」なんて言わないのである。

「どう、安くしておくよ」なんて勧められたのだが、いまいち使いこなせるかわからない。とりあえず丁重にお断りしたのだが、それでも結局2-3日後には中古屋さんで全く同じ組み合わせで買ってしまった。早速フイルムを通して街で手当たり次第に撮る。二重像を合致させないと合焦しないと頭ではわかっていても、一眼レフのファインダーに慣れきった目と感覚は、クリアに像が見えていれば合焦しているとフォーカシングを端折ってしまう。同じくブライトフレームの存在も頭ではわかっている。しかしファインダー全体の視野を写る範囲だと思ってしまう。ネガがあがってはじめて撮った画を見て酷くがっかりしたのをよく覚えている。ピンボケだわ、意図したフレームとはまるで違って写ってるわ、正直えらいものを買ってしまったと思った。

ロクに機材を見る眼も無いのに、安ければよいと買ったレンズは最悪だった。上のカットはまさにその時のもので、何故こうもぼんやりと写るのかその理由すらわからなかった。今になって思えば、ひどく曇ったレンズだったのだろう。逆光気味にレンズを向ければ途端に画面は真っ白だった。それでもはじめて買ったライカ。嬉しくてライカ好きの友人にカメラを見せた。友人は「外観は綺麗だけれど、ファインダーめちゃめちゃ曇ってるね」と一言。「幾らだった?」と聞かれ、買った値段を告げると「まあそんなもんだよ」と。

以来、せっかく買ったライカはろくに使いもせず埃まみれに。そしてハッセルのレンズ購入資金に化けてしまうのだった。

せっかく買ったライカは落ち着く暇もなく手元を去り、また元通りハッセルブラッドで写真を撮る日々に。しかし手持ち撮影の楽しさを覚えてからは、スナップ撮影が主になっていった。それまで人にレンズを向けるということは滅多になかったのだが、気軽に向けられるようになる。ハッセルをお使いの方ならなんとなくおわかりいただけるだろうが、もう少し"軽く"、アイレベルで撮りたいと思うようになった。35mm一眼?・・・それも仰々しいなあ。そこで再びライカが頭に過ぎるのである。しかし10万円以上を短期間のうちにドブに捨ててしまった忌々しい記憶が邪魔をして、再度手に入れるのに踏み切れない。そうだ新品なら大丈夫だろう、と意を決して現行型のボディとレンズを購入することに。いまのように壊れた金銭感覚ではなく、それはもう天文学的な金額に思えた。それでも買う。買って絶対に使いこなしてやるとカードを握りしめてカウンターに。お支払い回数は?と聞かれ、思わず恐れおののいて20回と答えてしまったのだった。

今度は慎重にフォーカシングを行った。レンズだって新品だ。ちゃんと写ってるはずだとラボに出向く。一度放り出した過去のせいか、怒濤の借金のせいか、上がったベタ焼きを見て感動してしまった。当時、レンズ描写を読むなんてことはできなかったし今だって大してわかったもんじゃない。いずれにせよ、当時の眼力を元にした記憶だから何に感動したのかはさっぱりよく思い出せない。しかしプリントが(人が)微笑んでいる。そう、こんな写真が撮りたかったのだ。単純な性格で、人を撮るならライカしかないとまで思いこんでしまった。

ライカは向けたときに概ね評判がよい。見慣れないカメラなせいなのか、そのルックスによるものなのか。静かなもので、相手はいつシャッターを切ってるのかさえわからないことが多い。意識の外で撮られた写真は、被写体にとって新鮮なようだ。撮る、見せる、喜んで貰える。この繰り返しで人の稜線、つまりピークに立ち会う歓びを知った。これはライカのおかげなんだろう。

中判カメラを使った風景撮影では、たいていf32程度までは絞り込む。周辺が落ちるレンズも中にはあるだろうが、いずれにせよ絞り込むことで自然に解消する。そもそも周辺落ちなんてもってのほかだ。そこへきて、ライカ。極端なことを言えば、周辺が落ちないレンズを探す方がある種難しいのではないか。しかもむやみやたらに開放で撮りたくなる不思議な代物である。種を明かせば簡単で残存収差がもたらす写りが新鮮だから。ゆえにいつしか周辺落ちは当たり前になってしまうのだ。新品のボディとレンズを買い、しばらく何も買えなかった。買えるのは今にも土に還りそうなボロボロのレンズである。そもそも他のメーカーのカメラで、こんな程度の悪いレンズはいくら中古でも商品として成立しないと思うのだが。。。そしてボロボロにもかかわらず、国産メーカーの標準レンズが新品で買えるような値段だったりする。一体何なんだ。

それでも買える買えないはともかく、取り付けられるレンズが無数にあれば色々試したくなるのが人情というもの。1本、また1本と買っては手放し、また買っては手放し。意識せずとも比較対象は誉れ高きハッセル用ツァイスレンズとなっていただろう。正直まともに写ると思えるレンズはまるで無かった。むしろ凄いなと感心したのをよく覚えている。車が買えそうなレンズから数万円のレンズまで、それはもうありとあらゆるレンズが並ぶのだが、それらを全部ひっくるめて「ライカ」である。支えている人達が居るからこそ成り立っているのだろう。それにしたって、白く曇ったレンズで女性を撮り、たまたま上手い具合にふんわり写り、それが絶佳な作品となったとしても、いくらなんでも皆さん優しすぎやしませんか、と。新品ライカのベタ焼きを見た感動が、一様にみんなに降りてくるって? 随分愛想のよい写真の神様だ。

このページをご覧の皆さん、つまりライカに興味をお持ちの皆さんは、多分あのプリミティブさに隠れる何かを直感されて惹かれているのだと思います。実に何もしてくれないカメラで、オールドのM型ライカに至っては全く何もしてくれないと言ってよいでしょう。どんなにブレーキをかけたって、惹かれてしまっている以上、もう手にするしかありません。そして何一つ気の利いたことはしてくれない以上、自分で確かめ、考え、感じるほか方法はありません。これがまた、入口から出口まで一貫して同じことが言えます。ライカはいつだって、自分が一体何を求めているのか、何を考えなければならないのかを迫ってきます。当然です。単にボタンを押したらシャッター幕がおおよそ決められた速度(?)にて開いて閉じるだけですから。巻き上げすらやってくれません。ボディは、なんとなく平行線の終端をコンパスで描いてつないだような平面的な形状。ホールドしづらいように思えて、その実、ホールドするなら必要最小限のサイズ。これ以上小さくても大きくても、カメラボディの存在感が増してしまい、撮影者が振り回されるサイズになってしまいます。あまりこんなことを実践する人は居ないと思われますが、バラしてみるとさらに面白い。本当に大したことがないのです。そこにあるべきネジが、ごく当たり前に締めてある。ライカとは一事が万事、そんなカメラなのです。

究極にそぎ落とされて、必要以上のことは一切何も提供しない。それでよいのだと思います。ファインダーを覗き、距離を測り、眼前を流れる刻と光景を前にして、シャッターという楔を打ち込み、切り取った先と後の間のアニマをフレームに収めるのはいつだって撮影者の意志であり、それを汲み取るなんて必要は無いし、そんなことはできっこ無いわけですから。

・・・なんてことをいくら並べたところでユーザという名のフォロワーの戯言に過ぎず、「わかっちゃいねーな、写真の面白さを」なんて、いまのM型の原型を創り上げた方は笑っているかもしれませんね。

オールドから現行まで、神話に神話の尾ひれがつくライカ。はじめのうちは手当たり次第に試したくなります。神格化されたレンズを使って興奮気味に「何かが宿ってるようだ・・・」なんて、単なる二線ボケに過ぎなかったりします。恐らくなにもしてくれないからこそ、尾ひれにも人の想いが。フレアの酷いレンズだって一つの個性と受け止めるようになってしまいます。それをどう接するか使うかは自分次第、なんて。考えてみれば、ライカというカメラはこの世で最も優良な劣化しない「Stock」かもしれませんね。いろんな意味で。話が脱線いたしました。ライカが気になる貴方、ぜひ一度手にしてみてください。

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